昭和52年07月18日 月次祭
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかん一心と定めい。とこれは今朝のご理解でございます。大きな信心通いとは取りも直さず、大きなおかげを受けると言う事でございます。お互い折角信心をさせて頂くのですから、本当に大きなおかげを頂きたいと思います。というて大きな信心とは。大きなおかげを頂かせて下さいと願う事だけではない。勿論心が大きくならなければいけません。そこでまた大きくなっただけでもいけません。それが綺麗に大きく美しくなっていかなければなりません。
それは豊かに大きくなっていかなければなりません。今朝から朝のご祈念が終わった後でしたでしょうか。田主丸のむつやの社長であります、石井さんが夕べは壮年会でございましたから、こちらに泊まらせて頂きましたら、不思議な同時に大変気持ちの悪いお夢を頂いたというのです。私が石井さん自身が二階から魚つりをしておる。下はどぶがわである。そこで釣り糸をたれておったら何か手応えがあるから上げてみた。所が大きなうなぎがかかっておる。
これはうなぎだと思うておったら、これは蛇だったというそのお夢であったというのです。二三日前に頂いたご理解の中に、昼のご理解の中におかげは受け徳受け勝と。教祖のお言葉の中に、中々難解分かりにくい御教えがありますが、このご理解も中々分かりにくい感じのする御教えです。おかげは受け徳受け勝ちと。おかげはもう何かここに置いてある、早くごろごろ持っていったものが勝ちだと言う様な感じさえする御教えですね。所がそれをよくよく味合わせて頂くと、中々味わいのある御教えです。
おかげは受け徳とは、徳を受けると書いてあります。御神徳の徳です。おかげはお徳を受けたものには勝たない。お徳は受け勝ち受け徳というのは、お徳を受けた者には勝たん。どんなにお徳を受けたものの悪口をいうておっても、又はどんなに喧嘩を仕掛けておっても、もうお徳のあるものには勝たんというのです。いかにもお徳のある人が負けたかのように見えておるけれども、結局はお徳のある人が勝ちなんだ。
おかげもやっぱりその通り。おかげは要らん要らんというふうにしておるけれども、ごろごろおかげは頂きなさる。そうですね。お徳が頂けれると言う事はまず第一、我情がとれ我欲がとれなければお徳は受けられません。我情というのは自分の思い、ああしたいこうしたい、そういうああしたいこうしたいをとらなければならない。それこそ神ながらな生き方が出来なければならない。勿論我欲というのもそうです。食べた上にも食べたい、儲かった上にも儲かりたい。
いやそれが儲かった上にも儲かりたいならよいけれども、それこそ人の茶碗でも叩き落してでも儲からなければならんと言った様な生き方。これはまさしく我欲。なるほど我欲でためあげる人もあるけれども、これではそれが却って結果においては、よくない事になるのだと。これは先日頂いた御教えの中に無欲と言う事は、大欲に通じると書きます。言うならば淡々とした心の状態。無理して儲からなくてもよい。と言う様な気持ちそれは大欲に通じる。
それはもう限りない御神徳の世界の事をいうのでしょう。無欲になると言う事は矢張りお徳を受けなければ出来る事ではないと思う。そこでお互いが我情を取る稽古であると同時に、我欲を取る稽古と。我情我欲を離れて真の大道を開き見よと、我情我欲を取らないと本当の道が分からない。本当の道が分からないから、本当の信心も分からん本当のおかげも分からない。
願って頼んで頂くというおかげではなくて、願わんでも頼まんでもいやいらんというても、神様の方が下さらなければならんという働きが起こってきて、頂くおかげですから、無欲は大欲に通じる。しかもその無欲の上に現れてくるおかげというのは、もう限りのないおかげ。無尽蔵である信心の世界。段々まあ我情我欲からお互い、信心に入るわけですけれども、その我情が取れていく過程我情が取れていく、我欲が取れていくその過程がいうならば修行というのではないでしょうか。
むつやのいわゆる社長が参ってまいりますと、私が社長に言うております事は、もうとにかくあんたが大きくなる以外になかばいと是だけです。あんたが大きくなる以外にないよと。中々自分の心いっぱいにはばからん事が沢山ある。けれどもはばからんのは自分の心が小さい証拠だから、是によって大きくもなろう豊かにもなろうと精進させて頂くうちにです、はばからなかったものがはばかって来る様になってくる。胸にもたれなかったものが、それが有難くもさえお礼が言えれる様にすらなってくる。
そこで今朝から頂いておるその御夢から考えますと、先日おかげは受け徳受け勝ちという御理解を頂いた時にとにかく、おかげというものはここに一杯あるのだと。だからあなたがたは持っていくだけは持って行って下さいと、持ってこれるなら持ってこれるだけ持ってきた。とにかく頂いてきたもの勝ちだというような感じの御理解ですけれども、おかげを受けたものが勝ちだと言う事である。そのまあ前提としてです魚釣る人見ておる人と言う事を頂きました。
魚釣る人見ておる人。ははぁこれで本当におかげは受け徳受け勝ちの意味が分かったような気が致します。おかげを頂きたいならばおかげを頂きたいという姿勢をまず作らなければならない。魚が欲しいならまず腕こまねいて、人が釣っておるのをちゃんと腕こまねいて見ておるだけでは誰も魚はくれはしません。その全然くれんと言う事ではないですけれどもね、今日は日田のあの国師さんが、こんな大きな明日のお魚のお供えがあっておりました。ご主人が先日何か釣りにいかれた。
お願いした昨日一昨日。したら今度は大変な沢山釣れたからというてから、その持って来て下さっておるのですから、まあそのまあいうならば貰えば貰えん事はないですよね。けれどもやっぱり自分が釣ってこなければ喜びも楽しみもないと言う事なんです。。私は魚釣りをした事がないですから分からんですけれども、矢張り釣り三昧の境地というものがあるそうです。念仏三昧信心三昧と申します。
釣りにも矢張り釣り三昧釣れようが釣れまいがじっと、浮きを浮かしてですかね、あれでじっと眺めてこう引けばあげてみる。いわゆる餌はとられておる。また餌をつけてまたその川の中に投げ込んでおくと、魚が釣れたり釣れなかったりではあるけれどもです、そんならその川の中、川に入って魚を釣る、私が御心眼に頂いたのは丁度筑後川の様な所で、膝当りの所まで、川に漬かってあれは投げ釣りというのでしょうかね、ああやって釣りよるところ。
それを堤防の上からちゃんと座ってみよる、そういう情景を心眼に頂いてははあこれは魚釣る人見ておる人という事になるのです。そしておかげは受け徳受け勝ちという意味が始めてはっきり分かった様な気がする。魚を釣るもうあんた何引き釣ったならはよ帰りなさいとは神様は言われない。自分が辛抱すれば辛抱するだけ、釣れようが釣れまいが釣れなくてもそこには釣り三昧の境地があって楽しまれる。
その上釣れればなおあり難いこと。一匹釣ろうが二十匹釣ろうが、いや百匹釣ろうが神様はそんなに沢山釣って持って帰っては出来んぞとは仰らないと言う事が受け勝ちだと言う事が分かりました。成程おかげは受け勝ちであるけれども、その受け徳と言う事は姿勢を作るお徳を受ける、先ずお徳を受ける為には先ず、姿勢を正さなければならないと言う事である。それをただ堤防の上から眺めておるだけでは、それで信心しておる積りである。積りではいかん。
矢張り川に入りもしなければならん、釣り竿も用意しなければならない。第一身ごしらえをしなければならない。餌もつけなければならない。いかにもめんどくさいのようだけれども、それを繰り返しておる内にです、いうならば釣りの三昧卿というものが開けてきて、それはつれなくても楽しい事に違いはなかろうと思います。そういう信心を身につけていきたい。今朝からのご理解に迷い信心ではいかん一心と定めいと。大きな信心がよいと。と言う事について今日はまた新たな角度から頂いた。
昨日は壮年大会であのように沢山の壮年の方達が集まられて一日、信心のいうならば稽古をさせて頂いたわけです。竹内先生の御講話を頂いた。この度のお話はもうとりわけ私はあり難いと思うた。だけではなくて合楽の信心もああいう頂き方、ああいう説明の仕方をするならば、反目しておる人でも理屈ばかりを言う人でもあれならばわかるだろうと思うような素晴らしい説き方をなさいました。
勿論合楽理念についてであります。前半がそうでした。相対性原理私共はどう言う事か分かりませんけれども、合楽でいう信心は常識を外れておる。だから信心のないものが見ると、いかにもそれは非常識のようにも見える事すらもある。けれどもそれは非常識ではなくてそれは超常識だと言うお話でございました。それを双方性原理に基づいてのお話です。だから大変難しい事の様ですけれどももう、聞いておるものはです、成程なるほどと合点の行く様なお話でした。
私はある意味において新たな自信を得たような気が致しました。後半は先生ご自身のそれこそ目の細い御信心。日々の信心生活を語られました。目が覚める。床の上に起き上がったらまず、親先生ただ今目覚ましのおかげの頂きましたから始まる。洗顔まずご神前に行っての御祈念。それからテープで頂かれるご理解。これはもう日課である。洗顔をさせて頂く時でもお、お水を使わせて頂く時でも、一日のいうならば伊万里市長という大きな御用を頂いておられるので、中々大変な事がありますけれども。
自分の目の前に掲げてある親先生から書いて頂いておる寛という字を眺めさせて頂いては、こういう心の状態で市制の事を祈らなければならない。寛という字はウ冠に草冠が書いてあって、見ると書いてある。ウ冠は宇宙の宇であり草冠は自然であり、自然に起きてくる総ての事を宇宙が天地が天地の親神様が私竹内道教に求め給う修行であるという頂き方をするとどういう例えば難問題を持ってこられても、それをあり難く処理して行く事が出来るというのである。
最近はそれを先日から、どなたかが先生の誕生日にお祝いを贈られる。何かそれに色んな額を送られておる。それでその色紙に何か書いてくれと言って持ってくる。竹内先生の誕生日に差し上げたいからというのである。それで私はそれにその当時頂いておりました、心一つですべてを創るというみ教えを書いておりましたから、今はそれに変わっておるのです。成程心一つですべてを創るのだと。
心一つで素晴らしいおかげが頂かれるのだという事を心に繰り返させて頂きながら、日々を過ごさせて頂いておる。一日を御用を終わらせて頂いて、じっとご神前で今日一日の事を思わせて頂くと、はあ今日こそ100点じゃったじゃろうと思える時もあるかと思うと、今日はもう本当に七十点じゃったじゃろうか六十点じゃったじゃろうか、はあ今日は落第点であったと思うような事が多い。
そこは愈々お詫びに徹しさせて頂いて明くる日の御用に差し支えがないように、詫びれば許してやりたいのが親心と、親心だからその親心に縋ってまた、翌日を迎える準備をしておる。特にお風呂に入らせて頂く時にはもうとにかく湯桶半分というただけで、親先生と私はもうすでに交流しておるというておられました。扇風機を使わせて頂くにも、もう絶対、一番強いのの次のしか押さんとこう言うておられます。これは私が実行しておることを聞いて知っておられるのです。
親先生もこうなさるからそうするのである。お風呂に入らせて頂いてゆ桶半分、思うただけで心が親先生と通う。親先生が教祖金光大神と通うてござる。教祖金光大神が天地金乃神と同根と言われるほどしに交流しておられる。親先生と交流する事はそのまま金光大神との交流であり、天地金乃神様との交流でもあるのだ。その交流の道を辿って、今日私が頂いておるおかげが、あるのだというお話しでしたですね。もう私は今朝から今日研修の時に申しました。
私がお風呂に入ったら湯桶半分というのが湯神、半分ば実行しておる人があるかというのです。湯桶半分だけで体をあらわなんというのじゃないですからね。ただ汲む時にお粗末にならないように、がばっと洗面器いっぱい掛るのじゃなくて、湯桶半分と思うただけでいうならば、神様を大事にする事になるだろう。風呂に入ってタオルかけをかける時にです、本当にこうやってこれが渇いた時には、それこそあの板のように綺麗に乾いておる。誰が使っても気持ちがよい。
石鹸をきちっと水がきって、いつも使いようべたべたしておる様な事は決してない。ちょっとした心掛けが始末倹約の事になるというのではなくて、後から使う人の気持ちが良いだろう。また神様の御物をお粗末にしないと言う事にもなる。いうなら一挙両得にも三得にも成程しの事を私共が疎かにしておる所を気付かせて貰うのが心行だ、いや心行の始まりだと言われるのです。私は改めてです、昨日竹内先生の信心の目の小さいのに、感心いたしました。
中に三十八年、私が当時の椛目に2回目でしたか三回目かにお引き寄せを頂く。お引き寄せを頂いても当時熊本から、いつも先生とはお目に掛かれなかった。それも私今から考えたら不思議でたまらんのです。あの時分私は大体門外不出ですから、おらんはずはないのです。何か親教会の何かがあったかなにかという事でしょう。みえるたんびに合わないのです。三回目のお参りの時に、亡くなられた久保山先生が御結界奉仕をしておられた。今日は先生今朝のご理解にその竹内さんのご理解が出ましたよと。
まだみた事もない竹内さん。それがね竹内さんがね、先生あなたがお参りになられて、先生にお伺いをしておられる事でした。というのは最近の金光教団を見回して見ると、もう本当に人が助かるという教会が無くなった。いや以前はこの教会で随分人が助かったのだけれども、二代になり三代になりして、寂れていく信者が減っていくというのは、どういう事でしょうかというて、お伺いをさせて頂いたら、私がその夢を見ておる所がご理解に出ておる分けなんです。
竹内先生が尋ねておられる所がご理解に出ておる。それはね教会が教団が現在湿地状態になっておるのだと言う事であった。湿地というのは湿りが多すぎていうならば、その種を蒔いてもよいものが生えないという意味でしょう。湿地です成程おかげを頂いてきた、頂き過ぎてきた。それに対しての信心が出来ていない。いうならば美田であった田んぼが湿地になってしまっておるのだ。いうならば不毛の地にも等しいほどしの事になっておるのだといわれた。
そこでその湿地を美田にするためにはどういう手立ての信心をさせて頂いたら良いでしょうかとお伺いをさせて頂いたら、親先生がそれは、人情いわゆる人間心から、神情に変わる事だといわれた。私はそれを聞かせて頂いて、三十八年その時分のその事をはっきり改めて思い出した。成程あんなご理解頂いた事があったと思うて。それを一日その日に参ってみえて其のご理解を全部ひかえて帰っておられたのを、昨日はそれを持ってきて、それをお読みになりました。
そしてもうすでに三十八年にはこの様な素晴らしい言うならば合楽理念の芯になるようなご理解が出ておるという事を説明されておりました。これはお互いの心の中にでもそうです。おかげを受けられるん。おかげは頂き過ぎてお礼が足らんでおるのだと。そこで湿地状態になっておるから、その湿地状態を美田にしていくためにいわば湿抜きをしなければならない。皆さん湿抜きと言う事はご存知でしょうか。たんぼをこうほりあっていくわけですね。この深く掘っていくわけ。
横、縦、十文字に掘ってそこにあの、ここら当りでは、あれはしだをいけますね。しだを枯らしといて、しだをそこに全部いけて。そうすっと水が抜けて湿田が美田になるわけです。だから今日私は研修の時にそのしだと言う事がここでは、しだこだの信心をしたらおかげもしだこだじゃ。というお知らせを頂く時にあのしだを頂きますから、結局お互いがですしだこだにしておる信心を、先ずはいうならば葬ってしまわなければならない。その事が次の湿田が美田に変わって行く事だというお話しを。
昨日講話の中で読まれておりました。これは十何年前のお話しではなくて、今日的私共の信心の上にでもそれが頂けて来る事だ。成程自分が大きな願いを持ったり、おかげが頂きたいと思うても頂けんならばです、いうならば美田が湿田になっておる事実を自分で分からせてもろうて、そこに湿抜きの手立てである所のしだこだの信心を葬っていく姿勢を作らなければならない。私は魚釣る人と言う事はね、そういう事だと思うです。ただしだこだなりになら、それこそむつやの社長ではないですけれども。
2階からどんこうやって魚釣り、前の方にはどぶ川ごやしかなか。ならそこで素晴らしい鮎とか鯉とかという魚が釣れるはずがない。矢張り鯉を釣りたいと思うならば清流に出らなければならない。身ごしらえをしていかなければならない。そこで釣ったり掛かったりしてくる魚がいうならば、信心のおかげでもあると同時にお徳でもあるわけです。手応えがあるから引いてみた、あげてみた所がはあ、これは大きなうなぎと思うたらそれが蛇じゃったという事。
却って美田を湿田にしていくような事になってはいないか。いかにも成程ならむつやの社長が毎日日参をして参ります。けれどもその日参をしておるから良い信心とはいえんのです。問題は内容なのです。その内容が私共が再検討されて、愈々限りないおかげ。昨日私は最後に、私のお話しでしたから、お話しさせて頂く時にです、感じた事ですけれども、合楽の信心は大きいなと言う事を頭に思うた。
ある教会のご信者が弟が戦死をした。その戦死をした事にでも有り難いとお礼を申し上げんならんと言う今日話を聞いたが、そげな気持ちが開けるでしょうかと言う事であった。合楽でならまあ大概の人がそこん所を分かっておるけれども、ある教会の方だから分かっていなかった。成程悲しい事に間違いがないけれども、その事を通して100悲しいなら千の有り難さができる、千の信心ができるからね、その事に対してもお礼が言えれるようなおかげ。
信心をしておるから雨は降らん、信心しておるから風は吹かんと言う事はないのだと。その雨を風をいかに受けていくかという事を常日頃稽古しておかなければならない。だからそういう事は小さい信心なのだ。そんな事は問題にならんのだ。どういう人生の大難儀に直面してもそれはおかげ神愛と頂けれる信心。そういう信心を今朝から頂いてそういう信心を大きな信心だという風に頂きました。
お互い大きな信心が出来ておるかのようにある。けれども愈々雨が降るから外に出てみた。傘を持っておると思うて開いてみた。所がその傘は破れておって、ものの様に立たなかったと言う様な事がお互いございます。愈々自分の信心を検討した上にも検討して、昨日今日から頂いております御理解の中からね、吟味した上にも吟味して愈々良い信心に、しかも大きな信心に繋がっていかなければならん。
此の方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせん、成程これで確かにおかげは限りなく頂くけれども、こう言う信心は土台になるものであってそれが育っていかなければそれは小さい信心だという事を今朝から頂きました。時間がありませんからこの事にはまたの機会に致しますけれども、とにかく有難いで開けた道じゃから、有難い有難いで受けてさえいきゃよい。確かにそれでおかげは受けられますけれども、それが大きく育っていかなければ大きなおかげには繋がらないと言う事でございます。
どうぞ。